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~ 岩槻城下町探訪 ~

現在の埼玉県さいたま市岩槻区(旧岩槻市)の中心部は岩槻城とその城下町によって形成されました。その歴史ある街をご紹介します。
※このページは、2002年に作成したものです。最新の状況と異なっている場合がありますのでご容赦下さい。

(地図は2002年作成時の内容ですので現状と異なっている場合があることをご了承願います)

地図からわかる城下町の様子
上の地図は、岩槻の江戸時代の城下町の範囲と、その構造を現在の街と比較できるように作りました。色の塗り分けがそれを示しています。江戸時代後期の天保年間(1830~44)頃に作成された絵図を元にしています。町人地の部分が現在の市街地とほぼ同じであることに気付きます。

日光御成街道沿いに発展した市街地
町人地の中心を
日光御成街道が通っています。城下町であり街道の宿場町でもあったわけです。
岩槻は宇都宮とともに将軍の宿泊地として重要な町でもありました。

広大だった岩槻城
東半分の広大な部分が岩槻城です。そこは低湿地の
沼地でしたが、その中に土を盛って本丸などの曲輪(くるわ)を造りました。現在岩槻公園となっている地図の緑色の部分を含めて曲輪の周りの沼地は、外敵の侵入を防ぐの役割を果たしていました。また、城の外側には天然の堀である元荒川があります。

大手(城の表玄関)は、三の丸と武家地が接する部分にあったようです。新曲輪には櫓台(やぐらだい)が残っています。天守閣にあたる建物()が建っていた所です。

町人地と武家地の道路は昔とあまり変わっていませんが、岩槻城内の道路はすべて現代に造られたものです。そして曲輪や沼地は今は住宅が建ち並んでいます。
現在岩槻城跡として見られるのは岩槻公園内に残されたほんの一部分だということがわかります。しかも他の多くの城跡が本丸(城の中心部)が残っているのに対して、岩槻城は後で付け足された部分(新曲輪と鍛冶曲輪)だけが残っていることに注目してください。
また岩槻城は最初から広大なものではなく、築城時は本丸と二の丸、樹木屋敷だけだったと推定されています。


城下を囲む大構
地図を見ると城下町の周囲をぐるっと囲む「
大構(おおがまえ)」があることがわかります。大構は総構などと呼ばれ、小田原城下のものが有名です。これは戦国時代に隆盛した後北条氏の築城方法特有のもので、町全体を土塁で囲み、籠城戦の時は食料や物資を大量に確保することができました。岩槻城の大構も戦国時代北条氏房が城主の頃に造られたものです。ヨーロッパで見られる城壁と同じ役割のものです。
現在はほとんど消滅して道路になっていて、東武野田線脇の
愛宕神社にその土塁の痕跡を見ることができます。

     


日光御成街道(にっこうおなりかいどう)
江戸の徳川幕府の将軍が日光東照宮に参詣する際に通った街道。日光街道の西側を並行して北上し幸手宿で合流。


元荒川(もとあらかわ)
江戸時代の河川改修によって荒川の流路が変更されて元荒川となった。





築城時
最初は室町時代の長禄元年(1457)に太田道真・道灌父子によって築城された。その当時、辺りは原野が広がっていた。






後北条氏(ごほうじょうし)
鎌倉時代の北条氏に対して、後に戦国時代の初め北条早雲が同名の北条氏を名乗ったことによる呼び名。

2002/1作成 2013/11/25更新

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